明治以降のべっ甲
べっ甲が長崎の名産に育ったわけ
安政六年(1859)開港条約の締結のより、蘭ばかりではなく、米・英・露などの商船、軍艦が絶え間なく出入。長崎で多くの土産物を買うことになる。その中でもロシヤ人はべっ甲の製品を好んで購入していた。
安政五年(1858) 九月当地甲能辧五郎氏一露国人より鼈甲細工品の修繕を託せられたることあり、当時市内鼈甲業者中には外国人向鼈甲器に対する知識経験に乏しく、何れも其の修繕に苦心したりしたが中に今魚町江崎棠造氏辛うじて之を修理するを得たり、之れ輸出向鼈甲に着眼せる動機なり、爾来斯業に従事するもの漸く多く、明治七年頃には既に軍艦模型の如き精巧品を製出し得るに至れり。
甲能辧五郎は、ロシヤ人対手の貿易商であった。外国人対手にべっ甲が取引きされるようになってくると、長崎のべっ甲職人達も従来のような国内むけのデザインのべっ甲細工ではなく、外国人が好むべっ甲細工を製作することが必要となってくる。
明治初年にかけて、ヨーロッパにあわせたべっ甲製品の開発が急務であったが、当時は参考にする本などもなく、相当苦労したようである。
しかし、長崎のべっ甲業者達は、出来る限りの資料を集めそこからデザインを掘り起し、結果国内はもとより、外国にも長崎のべっ甲細工を
広めることに成功し、長崎がべっ甲細工の産地として基礎を築いた。
大正時代
外国輸出用べっ甲化粧用品(明治時代)
当時のべっ甲製品は品種極めて多様で、「雖、櫛、笄、簪等従来内地に需要多かりし儀式用品を始め、巻煙草入、手箱、写真額、名刺入、帽子ピン、化粧道具入、傘柄、眼鏡装飾、カウス釦等装身具及び室内装飾品を主とし、其の他軍艦商船の模型など、亦甚だ好評なり。」
その価格は、「櫛笄類儀式用にて千円内外、常用にて五百円台なるもの珍しからず、普通品四五十円より百四五十円位なり。」
最近三ケ年間の製造産高を示せば左の如し。
年次 製造戸数 数 量 価 額
大正三 二四 八、五二〇個 一六八、五〇〇円
大正四 八 一五、八六八個 四〇、八七九円
大正五 八 二〇、六八六個 四四、九一一円
大正十一年、当時の教職員の初任給が四十二円である。
いかに、べっ甲製品が高価だったことがわかる。
明治の統計書
明治十五年長崎区統計表拾七、産物部によると次のようになっている。
亀甲 製造人員二十二名。 製造高四千四百六十五品。 賣高 三千七百九拾八品 原價 九千五百四拾八円五拾銭。 益金 貳千九百三拾七円五拾五銭
◎明治十九年長崎区第一回年報物産の部
明治十七年 | 41,387個 | 42,453,305円 |
明治十八年 | 9,685個 | 9,457,763円 |
明治十九年 | 7,901個 | 7,720,623円 |
◎明治二十三年長崎県統計書
年度 | 鼈甲器製造品 | 鼈甲器製所 |
明治廿三年 | 6,395個 | 5店 |
明治廿二年 | 2,573個 | 14店 |
明治廿一年 | ・・・・・・ | ・・・・・・・ |
明治廿年 | 6,978個 | 16店 |
明治十九年 | 7,906個 | 15店 |
◎明治三十四年同三十五年の長崎県統計書
江崎電甲器製造場 | 長崎市今魚町 江崎榮造 | 安政元年(一八五四)二月創業 | 雇工男大三人 |
坂田電甲工場 | 長崎市本籍町 坂田栄太郎 | 明治三年三月創業 | 雇工男十二人 |
二枝電甲製造所 | 長崎市東濱町 二枝貞次郎 | 明治十八年一月創業 | 雇工男十人 |
昭和三十四年、長崎市制六十五年史より
鼈甲細工
鼈甲細工はカステラと並び称される長崎市の特産品である。しかし、長崎における鼈甲細工はその始源があきらかでない。推定では唐蘭船の入津当初頃に発しているとされているから、約三八〇年余の伝統をもっていることになる。
その色沢と技術とは、これまた他の模倣を許さぎる特技と秘法をもち、鼈甲といえば長崎を連想させる位全世界に謳われているが、その内面には現在においても古いギルド的生産様式が残存しており、技術の真髄は秘法としてこれを墨守し、一般にはもちろん、斯業における師弟間においても師匠から一人の弟子に長期間の訓練を行った後、貴針を継ぐ者にのみ口伝される風習がある。(中略)この為技術を継承する人が減少する場合も考えられ、その生産規模においても、大部分家内工業の域から脱することのできない極めて発展性のとぽしいものになってしまうことも考えられ、加うるに長年にわたる戦争の結果原料輸入の杜絶、販路縮小等、これらによる不況の為零細な斯業者聞に おいては転職のやむなきに至り、一部分は或いはマニファクチュアへ移行しっつあるが何としても原料を海外に依存せねばならぬ関係上、斯業界をあげて輸出入による事態の打開策に懸命の努力をしている。(渡辺武彦『長崎の海外美術工芸品・上』昭29・5発行)