江戸時代のべっ甲

長崎オランダ商館の日記より

江戸時代、出島オランダ商館長が徳川将軍に献上した品物の中にべっ甲が記されている。
万治二年 (1659) 2月28日のオランダ人献上21品の中に次のように記してある。(長崎オランダ商館の日記 第一輯 P一四〇参照)
 一、べっ甲火燈 三つ

寛文五年 (1665) のオランダが人献上15品の中には次のように記してある。
 一、鼈甲火ともし 二つ

延宝八年 (1680) オランダ献上品の中にも鼈甲の製品がみられる。
 一、鼈甲燈篭 二つ

当時のべっ甲製品はポルトガル船の敗退の後をうけて玳瑁の生息地に近いジャバ島に進出し、バタビヤ (ジャカトラ) に政庁をおいていたオランダの東印度会社の手によって我が国に持ちわたられていた。

通航一覧巻百五十四には「阿蘭陀国より商賣将来申候品々」と記し、その中に、「一、べつかう」と記してあるが、その次には次のように記してある。
右之内 一、土こはく 一、阿蘭陀唐皮 一、へいたらばさる 一、べつかふ  一、血竭 一、阿蘭陀はがね
右之分日本下値に御座候故 持渡不申候由申候

寛文八年(1668)幕府は物価急騰に備えて倹約令をだし唐蘭船に対してぜい沢品の持ち渡りを禁止している。
この倹約令で「べっこう」は下値になる。

そして、この頃、やはり密輸しているものもいたらしい。


べっ甲細工の捕り物帳

延宝四年一月(1676)長崎代官を勤め巨万の富をなしていた末次平蔵茂朝母子が、密貿易に関与していたことが発覚して財産が没収され、母の長福院は壱岐へ、平蔵父子は隠岐に流されるという事件があった。
しかし、没収された財産の中にべっ甲製品はわずかに長福院の所蔵品の中に次の一点のみであった。

貳拾番
一 べつこう かみさし  壱つ


べっ甲の価値

天保元年(1830)喜多村信節が編纂した「嬉遊笑覧」にはべっ甲(玳瑁) のことについて次のように記してある。

巻一下 ○玳瑁 琉球の俗常に玳瑁を簪とす「中山博信録」に風俗をしるしし処、婦女小民家簪用 玳瑁 長尺許倒捭 髪中 翹 額上 髻甚鬆前後偏堕疑即所 謂 倭隨髻 也云々とあり「茅窻漫録」などに倭堕髻をここの下げ髪といへり……………ここにて専ら玳瑁の櫛笄を用るはこれらの風をうけたるにや。(中略)また「世の人心」にべつかうの惣すかしのさし櫛と見えたり(天和貞享のころなり)透しの櫛は其の後元文頃より近く天明迄も行はれたり………「我衣」にべつかふ高價に て寛保頃(一七四一- 四三)細工人に上手出来て水の色よきにべつこうの黒斑を入て上べつかうのまがいに賣と云れど 朝鮮べっ甲にてまがい作る事はその先にあり。

「我衣」には次のように記している。
明暦(一六五五-五七)までは大名の奥方ならでは、べっ甲を用いず・・・
元禄(一六八八-一七〇三)のころにはべっ甲も上品を選び 価の高下にかかわる.といえども金二両を極上とするべっ甲蒔絵も追々用いられ、元禄になり益々流行し、上品を選びて使用するようになりたり

十七世紀中頃までは、まだ一般庶民にべっ甲は流行せず、べっ甲が流行するようになったのは十七世紀末より十八世紀のはじめからであり、その価は二両と大変高価である。一般庶民には手に出るような品ではなく昔からべっ甲は贅沢品であった。