明治時代の長崎のべっ甲屋

江崎鼈甲器製造場(現江崎べっ甲店) 長崎市今魚町

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べっ甲を語る上にはずぜない老舗。眼鏡橋前の店舗は有形文化財指定。

特に五代目榮造氏は、明治十年の我が国の最初の国内博覧会にべっ甲製品を多数出品しており、六代栄造氏も無形文化財技術保持者に任命されるほどの名人。

江崎家の六代榮造氏は大変な名工で明治四十三年の大英博覧会にロンドンに出品された岩頭の親子獅子は特別賞を受賞されました。江崎の細工人としては榮造氏の指導をうけた人に国島甲三太(片渕町)相葉磯吉(浪の平)岩本作太郎(浪の平)田中00(田上)川内長吉(茂木)川内さんは茂木のビーチホテルを中心にべっ甲を手広く外人にも販売し、長崎にも店を出し思案橋の電車の終点に生きた亀をいれていました。弟子さんには茂木の人達が多かったのです。名前をあげますと、竹下一郎、荒木吉郎、高野治作、太田竹治、緒方武一、江川滋治、宮崎種二、山田正太郎さんなどがおられました。
参照:玳瑁考


長崎で明治以前のことはよくわからないが、江崎さんの店が明治時代一番古く店舗を構えられたとのことである。江崎店は、もとは現在の店のななめ前電車通り角であった。現在の江崎さんの店は、昔唐通事某がおられた家を購入し、表の一部を改造したものであるといわれる。外国人が江崎にべっ甲を注文するようになったのは四代清藏が俵物会所より外国人のべっ甲製品(パイプかシガレットケース?) の修理を依頼されたのが最初であったとの話であった。「それは安政開国の頃の話と思います」といわれる。五代榮造は明治十年の我が国最初の国内博覧会にべっ甲製品多数を出品しており、その出品目録は長崎県立図書館にある。長崎より他に出品者はなかったそうです。私の父六代栄造も名人といわれた人で後に県の無形文化財技術保持者に任命されました。父は勝山小学校時代、洋画家の山本森之助さんと机を並べていましたが、山本さんより絵が上手だったともきいています。(江崎榮一氏の話より)



二枝鼈甲製造所  長崎市東浜町

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二枝篭甲店は明治十六年九月、二枝貞治郎が東浜町の裏丁に創業した。浜の町に最初に出来た鼈甲店であるが、ここでも博多屋と同様店先に仕事場を構入えて鼈甲細工品を製作した。
もちろん、店頭の仕事場というのはこの二店に限らず、当時は市内の各種の商店で見られる光景であった。店と住居が一緒になっていた事情もあるが、今にして思えば、正真正銘の製品であることを見せ、信用と信頼をうる商法であったのであろう。
参照:玳瑁考

浜町に二枝さんがありましたね、あの二枝さんは博多の人で、博多の山崎という三味線の揆にべっ甲をつける仕事をしておられた人の弟子さんで、明治十五年頃二枝貞次郎、新次郎の兄弟で最初は浜町の裏通りで店を開かれました。貞次郎さんの子供は新三郎さんでした。新三郎さんは青貝細工を開発されたときいています。ここの弟子さん達に、本田幾雄、田中辰之助(東京に行かれた)、田中正夫、本田要造、矢野一、川端親雄、山本三太郎さんなどがおられました。山本三太郎さんの弟子に大園博之さんがおります。
参照:玳瑁考



坂田鼈甲工場  長崎市本籠町

本篭町の坂田専次郎のべっ甲屋も有名でした。坂田さんははじめ煙草屋だったそうですが、明治七年より外国人対手のべっ甲商をはじめたとのことです。坂田さんの店は二代仙次郎、三代榮造といいました、三代目のとき株で失敗し昭和二、三年頃店をとじました。この店の職長が松井儀三郎というべっ甲職人で名人でした。鋼座町に住っておられたと思います。
参照:玳瑁考



川口鼈甲美術品店  長崎市船大工町

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川口べっ甲店は、二代目繁蔵(昭和59年没)が、業界の先輩、江崎栄造を尊敬し、その江崎を目標として精勤したことで発展した。江崎に直接弟子入りしたわけではない。商いの手ほどきを直接受けたわけではない。が、終生その存在を恩とした。大正時代から昭和時代にかけての話である。江崎栄造も偉かった。この商売熱心な同業者後輩の存在を知り.詳細は割愛するが終始暖かく見守っている。こういう同業者同士のありようが.結局のところ.長崎のべっ甲細工とその商いの質を高め、全国的なものにした。同業者同士の「美談」は古くさく、語るに値しないだろうか。「美談」を商いに求めては経営は成り立たないものだろうか。そうは思わない。それが証拠に、四代目洋正である。265歳。父の三代目洋右は、昭和45年、37歳で病で死亡した。洋正が成人するまで.祖父の繁蔵が頑張っている。洋正が大学を出て帰郷すると間もなく繁蔵も逝った。若い洋正にとって川口ののれんは重かったに違いない。しかし洋正は敢然と継いだ。前述したような繁蔵の心根のようなものが洋正には誇るに値する「自店史」に思え.それを自分の代で閉じてしまうのはもったいないようにも思えたからだ。と、洋正は言う。「火事場のクソ力という言葉があります。店構えもイマ風とはいえませんが、より良いものを誠実に売るに必要なギリギリのところから取り組みはじめました」洋正のこの出発点は誤りではなかった。全国のべっ甲愛好者の間で、たとえ店名は失念しても「長崎市の浜町通りの真ん中にある専門店が一番」と言われるほどになっている。
参照:http://www.geocities.jp/hmkwg/new_page_32.htm



藤野豊太郎(店名不明)  長崎市万歳町

詳細不明



長崎の「べっ甲屋」は神戸にでまして「べっ甲」で眼鏡の枠をつくることに成功したのです。その 人達の中では大正時代の田中辰之助さんが神戸で最初にべっ甲の眼鏡枠をつくった人ときいていました。その外に黒田さん、前田さん、川口春さん兄弟、二枝べっ甲店からでられた田中正夫さん川口繁蔵さんの弟子の墨子さん、森カンジさん、川端親雄さんなどみな長崎より神戸にでて、べっ甲細工を上方に教えた人です。(坂本隆氏の話より)


私の父永沼義之助は藤田利吉さんにべっ甲の技術を習いました。藤田べっ甲店は天保年間からの古いべっ甲店だったそうです。赤瀬は永田某という人に習いました。永田の弟子には永田利吉(息子)がいました。利吉の弟子に福田寅三、本田浅次郎と私の父もいたのです。それで父は赤瀬と藤田利吉(旧姓永田)に習ったのです。正封勲三さんは福田寅三さんの子供で今篭町の正封に養子にゆかれたのです。私の父の弟子には伊藤辰一、道永弘幸、田代繁雄、小松三郎、福本勝巳、石熊菖雄、福本勝好、′矢野賢一、山崎正一さん達がいます、皆ほとんどが神戸にでかけられました。長崎より外人さん向けの輸出品には化粧用具といいますか、箱入りケースで大揃といいまして十二点そろいがありました。それはべっ甲製のお白粉入れ・丸鏡・櫛・靴べら・ブラシ・手かがみ・などを詰めたもので本べっ甲でつくるのもありましたが、大方は、はり甲でつくったセットが多く輸出されました。べっ甲の色は濃い色をイギリス人は好みました。(永沼武二氏の話より)


安政五年(1858) 九月当地甲能辧五郎氏一露国人より鼈甲細工品の修繕を託せられたることあり、当時市内鼈甲業者中には外国人向鼈甲器に対する知識経験に乏しく、何れも其の修繕に苦心したりしたが中に今魚町江崎棠造氏辛うじて之を修理するを得たり、之れ輸出向鼈甲に着眼せる動機なり、爾来斯業に従事するもの漸く多く、明治七年頃には既に軍艦模型の如き精巧品を製出し得るに至れり。
 今魚町 江崎榮造。 東浜町 二枝貞治郎。 船大工町 川口榮蔵。 本篭町 坂田栄太郎。 万歳町 藤野豊太郎。
其製品は品種極めて多様にして、一々枚挙に遑あらすと雖、櫛、笄、簪等従来内地に需要多かりし儀式用品を始め、巻煙草入、手箱、写真額、名刺入、帽子ピン、化粧道具入、傘柄、眼鏡装飾、カウス釦等装身具及び室内装飾品を主とし、其の他軍艦商船の模型など、亦甚だ好評なり。
価額は櫛笄類儀式用にて千円内外、常用にて五百円台なるもの珍しからず、普通品四五十円より百四五十円位なり。