南蛮船とべっ甲

玳瑁 住古 阿蘭陀船持ち渡るところの品なり

画像の説明
出展:Wikipedia

和漢三鉾戈図絵(*1)では、「玳瑁 住古(むかし) 阿蘭陀船持ち渡るところの品なり」と記述されている。
オランダ船が日本に入港し平戸で貿易を開始したのは1602年(慶長七)からで、日ポ辞書が長崎で発行されたのは1603年。

すでに玳瑁はオランダ船が持ち渡る以前より、日本にはあった。
オランダ船より以前は、ポルトガル船が1543年に入船、また、ポルトガル船と同時に当時薩摩、博多、平戸方面にはすでに唐船が入港していたので唐船によって持ち渡られた玳瑁もあったはず。

さらに玳瑁細工は日ポ辞書が説明しているようにシナ人の細工人によってつくられていたのであるから、唐船による持ち渡りがあったことも十分考えられる。

十六世紀末にはスペイン・ポルトガルに己に玳瑁の技法が伝えられており、スペイン・セビリヤには玳瑁で作られた銀の装飾がついた大きな十字架があり、説明には「十七世紀南米で作られたものである」と記してある。

この玳稽細工の技術はスペインが進出していたマニラ方面より南米に、それよりスペイン・セビリヤの町に伝えられたと考えられる。技術を伝えた人は多分シナ人と称されていた人達であったかもしれない。

スペインの玳瑁細工の技術を見ることが出来るのは、婦人用の櫛Peintaとなっている。またセビリヤの修道院に赤色の玳瑁でつくられ、銀細工を施した大きな箱Arconがあり、説明には、十七世紀南米で作られたと記してある。

実は日本にも、セビリヤの箱と同じ型のヨ-ロッパ風の大きな蓋付の箱arconがサントリー美術館で展示されている。

鼈甲象牙張橿ポルトガル製
鼈甲象牙張橿ポルトガル製 サントリー美術館蔵

外面には象牙の模様を入れた黒い鼈甲の板が装飾としてはりつけてあり、銀の装飾はつけられていない。この玳瑁は印度洋産かフィリピン産のもの を使用し、その土地に住んでいたシナ人と称される人の手によってつくられたものと考える。

サントリー美術館の学芸員のお話によると、「この箱は我が国に伝世していたものではないようだとのこと」この箱の製作地は十六、七世紀にかけ附てポルトガル人が力をもっていたマカオを中心とした地域で、ポルトガル人の注文により十六世紀末か、十七世紀につくられたものであると考えられる。


日本最古のべっ甲製品 「無関節式の鼻眼鏡の枠」

日本で十六、七世紀頃の、最も古いべっ甲製品として現存しているものは、「無関節式の鼻眼鏡の枠」。静岡県久龍山東照宮に収蔵されている徳川家康公の遺品の中にある。この眼鏡は言い伝えによるとオランダ人より家康に献上されたものであるとされている。

無関節式の鼻眼鏡の枠
無関節式の鼻眼鏡の枠

家康の歿年は元和二年二月(1616年) 、当時すでに1602年以来オランダ人は平戸に居を構え日本貿易に従事していたのであるから家康にこの眼鏡を献上することがあってもおかしくないことである。またこの眼鏡と同種のものがスリランカのコロンボ博物館に展示されていたという。(長岡博男氏著、日本の眼鏡参照)

長岡博男氏著、日本の眼鏡

江戸中期~昭和20年代 石川県立歴史博物館管理
江戸中期~昭和20年代 石川県立歴史博物館管理

十六世紀の日本では眼鏡は非常に珍らしいものであった。
それ故に1551年(天文二〇)ザビエルが大内義隆に贈った品物の中にも「時計、眼鏡、ガラスの盃、織物、油絵」などがあったし、1571年カブラル神父が織田信長を岐阜城に訪れたときには、神父が眼鏡をかけていたので群衆は「限玉が四ッある怪物」といって驚いたとフロイスの日本史は記している。

長崎の港は1571年ポルトガル船の来航以来、1600年頃までは殆ど唐船の入港はなかった。その故に長崎に伝えられた初期のべっ甲製品は全てポルトガル船によって持ち渡られたはずである。十六世紀以降長崎に入港してきた唐船は、それ以前すでに博多、薩摩の各港、平戸には来航していたので、玳瑁という言葉は早くより、その方面には伝えられていたであろう。
ポルトガル人はべっ甲のことをTartarugo(亀の一種)とよび、スペインでもCarey(亀)といっている。「タイマイ」「べっ甲」というシナ風の名はヨーロッパではもちいられることはなく、その材料とする亀を主体にした名前で「べっ甲」細工とよんでいる。


(*1)『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。